最近、政治や政治家が「国家像(ビジョン)」を語る場面を目にすることがあります。
一人の国民として、政治家がこの国をどうしていきたいのか、その未来像を聞いてみたいという気持ちはあります。しかし、その未来像に触れるたび、私はある疑問を抱くようになりました。
それは、「政治が描く未来像がすべて(100%)であっていいのだろうか?」ということです。
政治が社会の全体像をすべて描き、それを国民に押し付ける資格はないのではないか。これが私の考えです。なぜなら、私たちの社会は政治だけで成り立っているわけではないからです。
社会を形作る「3つの側面」
私は、社会には「政治」「文化」「産業(経済)」という3つの独立した大切な側面があると考えています。
- 文化(精神・生き方): 個人の価値観、芸術、学問、日々の暮らし。何が美しく、どう生きたいかを決める、自由であるべき領域。
- 産業(経済・日々の活力): 技術革新やビジネス、人々の創意工夫や労働。社会のエネルギーを生み出す領域。
- 政治(ルールの管理): 法律や税金、安全保障など、社会の最低限の枠組みを整える領域。
こうして見ると、政治は社会を構成する「3つのパーツのうちの1つ」でしかありません。政治が「正しい文化」や「正しい経済」まで決めて色を塗ろうとすると、それは個人の自由が奪われた窮屈な社会になってしまいます。
政治のビジョンは、あくまで「一つの提案」
政治家が語る国家像や未来像は、決定版でも100%の正解でもありません。それは「私はこの国をこういう方向に進めたいと思いますが、どうですか?」という、私たち国民への「一つの提案(たたき台)」に過ぎないのです。
政治がやるべきことは、全体を支配することではなく、文化や産業という主役たちが自由に、安全に活動できるための「舞台(キャンバスの枠組み)」を整えることではないでしょうか。
政治の言葉をうのみにせず、かといって政治を人任せにもしない。政治家のビジョンを一つの参考にしながら、残りの半分以上の未来は、私たちの「産業の力」や「豊かな文化」、別の一人一人の生き方でグラデーションのように作っていく。
そんな風通しの良い距離感で政治と付き合っていきたい、と私は考えています。